フランス古典主義の牙城、エコール・デ・ボザール
フランスには、エコール・デ・ボザールという伝統的な美術学校がある。このエコール・デ・ボザールについてはその母体から説明する必要がある。
そもそもは17世紀半ばに文学者を中心とした会合があった。この会合ではフランス語を誰にでも理解可能なものにするためにはどうするべきかが話し合われていた。この会合がやがてルイ13世治下の国家に認められ、アカデミー・フランセーズという学術団体となった。このアカデミー・フランセーズは現在まで約300年以上に渡って続いている。
現在のアカデミー・フランセーズは定員が40名からなる団体だ。歴代の会員にはヴォルテールやポール・ヴァレリー、ジャン・コクトーなど、歴史に名を残す著名な芸術家たちが多くいる。会員には芸術分野だけでなく、法律家、聖職者、医師、軍人、政治家など様々な職業のものたちがいる。
この会員資格は終身である。つまり、今いる会員が他界し、欠員がでるまで新しい会員は選ばれない。このアカデミー・フランセーズはフランス語の制定、アカデミー辞書の編纂をおこなう。その流れでフランスの芸術、学問の振興を主な役割とする。
その後、アカデミー・フランセーズ以外にもアカデミーが作られる。文学のアカデミー、科学のアカデミー、政治学のアカデミーなどだ。これらのアカデミーは17世紀の王政の元でつくられており、フランス王立アカデミーと呼ばれていた。
フランス王立アカデミーはフランス革命によって一時廃止される。その後、フランス王立アカデミーを前身とした、「フランス学士院」というかたちで改めて設立された。ここまでを図式にすると下のようになる。
フランス学士院
|-アカデミー・フランセーズ
|-文芸アカデミー
|-科学アカデミー
|-政治学アカデミー
|-アカデミー・デ・ボザール
建築に関してはアカデミー・デ・ボザールという団体がフランス学士院の傘下にあり、そのアカデミー・デ・ボザールのなかに絵画彫刻などと並んで、建築アカデミーがあった。図式にすると下のようになる。
フランス学士院
|-アカデミー・フランセーズ
|-文芸アカデミー
|-科学アカデミー
|-政治学アカデミー
|-アカデミー・デ・ボザール
|-絵画彫刻アカデミー
|-音楽アカデミー
|-建築アカデミー
アカデミー・デ・ボザールの付属学校として、フランス革命前に上記の3つのアカデミーがあった。これらのアカデミーは1789年のフランス革命、さらにその後の王政復古で再編がなされる。アカデミーは変化を繰り返しながらも、常にフランスにおける芸術分野で絶対的な地位にあった。アカデミーでは伝統的で古典主義的な作品を理想とする教育がなされた。
エコール・デ・ボザールはその流れのなかで1819年に、絵画・彫刻・建築の部門が統合されて誕生した美術学校だった。
エコール・デ・ボザールとローマ賞
エコール・デ・ボザールには芸術を学ぶために世界中から留学生がきていた。また、ここで建築の講義をおこなえるのは建築家として一流の証でもあった。講義をおこなった建築家の多くはローマ賞の受賞者でもあった。
ローマ賞というのは17世紀の半ばから1960年代後半までつづいたフランスの奨学金付き留学制度である。当時は古代ローマこそがヨーロッパの起源とされていた。ギリシアはまだイスラム世界にあり、ヨーロッパの理念に影響を与える存在ではなかった。
毎年、ローマ賞の受賞者選定のために設計競技がおこなわれ、年に一人の受賞者が選ばれる。受賞者は複数年ローマに留学することができた。ローマには歴史的な彫刻や建築物があり、それらを吸収するために国の援助のもとで留学できたのだ。ローマ賞を受賞してローマに留学するということは当時において、その才能に対する最高の評価であった。
受賞者はローマで学んだ古代・古典の様式について実測復原研究のレポートを作成し、パリに送るという課題があった。この課題の成果としてどのようなものを提出するのかも大いに注目を集めた。
ローマ賞受賞者は、ローマ古代の芸術を学べると同時に、帰国後の地位も約束されていた。公共部門の大型案件を任せられることも多く、さらにアカデミー会員に選ばれたり、エコール・デ・ボザールの教授になるなど、当時の芸術家として考えられるあらゆる成功が待っていた。
エコール・デ・ボザールは30歳という年齢制限はあったが、修業年を定めていなかった。そのため何年にもわたりローマ賞に挑み続けるものもいた。ローマ賞の審査はアカデミー・デ・ボザールの会員がおこなった。この会員資格も終身制である。
アカデミー及びエコール・デ・ボザール周辺にいた建築家は古典様式を学び伝統を重んじるあまり、保守的な傾向にあった。このような制度のもとで革新的な芸術家が誕生するのは難しい。
エコール・デ・ボザールで、建築理論講座の正教授であったルイ・ピエール・バルタールは著書のなかで「研鑽」の重要性を説く。研鑽とは研究し磨くことで、新たに変化を求めるものではない。バルタールは、この研鑽はルネサンスの建築家たちによってつくられた「研鑽の環」のなかに組みこまれるものであり、 その環から逸脱する危険性を指摘するのが教授の責務である、と語る。これは1835年頃に書かれたものだ。ルネサンスから500年経過しようという時代に、連綿と続く「環」から外れることが危険だと説く。
近代以降の芸術に付随する「創造性」や「ひらめき」といったものはきっぱりと否定する。バルタールは、天才による「形式に捕らわれない自由な遣り方」は建築の本質とは相容れない、なぜならこの遣り方には研鑽を必要としないからだ、と述べている。
アカデミズムとって「近代」は相手にならないほど弱かった
1927年、コルビュジエは国際連盟設計競技に応募する。応募案377点のなかで、コルビュジエの計画案がもっとも好評だった。
しかし審査委員のひとりが「提出図面がインクではなくコピーだ」という規定違反を理由にコルビュジエ案を退けた。これに対して強く批判したのがジークフリード・ギーディオンだ。ジークフリード・ギーディオンは近代主義建築を代表する建築史家だ。ギーディオンは著書で「彼(コルビュジエ)の案を拒否したのはフランスの政治的陰謀であった」と語る。
「ル・コルビュジエは、その提案があらゆる点で他の公募案よりも優れていたので、公正の原則によって1等賞と判定されていた。パリのアカデミー・ド・ボーザール(芸術院)のある教授の陰謀術策によって、国際連盟で最も影響力のある政治家だったアリスティド・ブリアンはアカデミー様式の建物しか受容しないと宣言したのである。こうして1等賞はル・コルビュジエに与えられず、現代建築に対して障壁が下ろされた。」
数世紀にわたって国家の庇護のもとで学び、教え、継承してきた、このアカデミズムの影響力は強大なものだ。当時の芸術に関することはすべて牛耳られていたといっても過言ではない。名誉あるアカデミーの会員になれるのはごく僅かな選ばれたものだけであり、しかも終身制だ。伝統的な徒弟制度以外から生まれたものは一切価値がないと考えるのも無理はない。
トニー・ガルニエという建築家がいる。1889年に20歳でエコール・デ・ボザールに入学、10年間在籍し年齢制限間際に5度目の挑戦でローマ賞を受賞した。その後、5年間ローマに国費留学する。ローマ賞の受賞者は古代ローマの研究をするのが慣習だった。しかしガルニエは近代建築の研究をし、「工業都市」という構想を練り、発表した。パリでは大騒動になる。
その後、トニー・ガルニエはアカデミー様式の建築作品を多数発表している。1906年にはエコール・デ・ボザールの教授に就任しているので、アカデミーからの名誉を挽回したということだろうう。ローマ賞受賞者であっても、アカデミーが求めるものから外れたものは一切評価されなかった。
トニー・ガルニエの仕事で現在、もっとも評価されているのは他でもない「工業都市」だ。「工業都市」は彼の代名詞と言ってもいいくらいだ。しかし当時は誰からも評価されることなく、ガルニエは時代の要請に従って古典主義的な建築作品を作り続けた。その「工業都市」を、唯一評価したのがコルビュジエだった。当時のコルビュジエはまだ建築家ではない。ローマ賞発表から10年以上経過したのち、1917年にガルニエは改めて「工業都市」という著作を発表する。
アカデミーの影響力は強大で、建築家として生きていくにはエコール・デ・ボザール風の建築作品をつくるしかなかった。コンクリートや近代主義を取り入れた未来の「工業都市」という意欲作を発表しても、唯一評価してくれたのは無名の建築見習いの若者一人だけだった。コルビュジエが建築家になろうかというときはそのような時代だった。一世代上のガルニエは古典主義建築作品をつくることで生き残るしかなかった。
ル・コルビュジエはいかにして近代建築家になったか
コルビュジエは近代主義建築の巨匠の一人として知られている。コルビュジエはパリのアカデミーとは交わることのない道を歩んで建築家になった人物だった。
コルビュジエはスイスの時計職人の家に生まれた。親の跡を継いで時計職人になるつもりだったところ、美術学校の教師の薦めで建築の道に進む。
コルビュジエはまず、オーギュスト・ペレの下で建築を学んだ。ペレはベルギー人の建築家で、エコール・デ・ボザールを中退している。中退と言っても、いくつかの賞も受賞しておりアカデミーの教育を受けた古典主義的な建築家だ。ペレはコンクリートを多用した建築で有名だ。古典様式のオーダーとコンクリートを融合したとして、古典と近代の橋渡し的な建築家とされる。ペレの事務所にはコルビュジエの他に、近代建築を代表するヴァルター・グロピウスも在籍していた。
コルビュジエはその後、ペーター・ベーレンスの建築事務所で働く。ベーレンスはドイツで画家やインダストリアルデザインの仕事からキャリアをスタートしている。建築の高等教育を修めたわけではない。AEGという電機メーカーのデザイン部門の責任者になり、工場の設計をおこなう。このAEG工場は建築史に残る名作として評価が高い。ベーレンスの事務所にはヴァルター・グロピウスとやはり近代建築を代表するミース・ファン・デル・ローエも一時期在籍していた。
コルビュジエがペレとベーレンスの下で建築を学んだのは合わせて2、3年の短い期間だ。その後、自身の建築事務所を構えるまで10年の期間がある。この間、コルビュジエはイタリアやギリシャを旅したり、一般企業に就職したり、雑誌を発行したりしている。
コルビュジエが建築事務所を構えたのが1922年、翌年には自身の雑誌に寄稿していた文章をまとめた『建築をめざして』を刊行している。このときコルビュジエはまだ大きな仕事をしていない。しかし、わずかその4年後には国連連盟本部庁舎の設計競技に応募し、一等目前というところまで進んでいる。
近代建築の成長
コルビュジエは規定違反を理由に設計競技で敗北する。これをフランスのアカデミーの政治的陰謀だとして、ジークフリード・ギーディオンは強く批判する。そのギーディオンを中心として、翌年CIAM「近代建築国際会議」が発足する。
CIAMはル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエ、ヴァルター・グロピウスといった近代を代表する建築家が参加した近代建築運動の会議だ。このときはじめて近代建築がアカデミーに対して明確な対立の姿勢をしめした。ギーディオンは1928年から56年までCIAM書記長を務めている。
1930年代以降、近代建築の名作が次々に誕生する。
ミース・ファン・デル・ローエのバルセロナ・パビリオン、ル・コルビュジエのユニテ・ダビダシオン、サヴォア邸、これらの作品たちが建築に新たな価値観をもたらすようになる。装飾がなく様式に則っていなくても優れた建築作品が存在し得ることを証明していく。
アカデミー様式の建築は、フランスで古典主義を学んだ建築家がアメリカに渡り、アメリカン・ボザールという潮流を生み出す。アメリカの公共施設に古典主義的な建物が多いのはそのためだ。やがて、それらの潮流も近代主義によって終わりを迎える。ヴァルター・グロピウスは1937年からアメリカに渡り、ハーバード大学で教鞭をとる。バウハウスという近代建築の教育機関をつくったグロピウスの教えがアメリカにも広まっていく。
国際連盟は第二次世界大戦によって、その機関としての役割の弱さを露呈した。その反省を教訓に、大戦後、ニューヨークに国際連合がつくられた。1952年、この本部ビルの設計をおこなったのはコルビュジエだった。